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クラウドワークスに入社した
会社の事業資金が底をつきそうな時に吉田社長が声をかけてくださった。本当に悩んだ。何が正しかったかは今でもわからない。でも、修行してこようと決めた。吉田さんの描いていたビジョンと自分のビジョンが重なった。この選択の方が、人のストーリーが尊重される世界の実現に近づけると思った
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「頭の下がる人になりなさい」
今日「たくのむ」を取り上げてくださった地元NHKでの放送があり、それについて電話で祖母と話していると祖母からこの言葉をもらい心に響いた。なぜ響いたんだろう。不思議だ。仏教に勤める祖母がいつも言ってくれてるように「おかげさま」の念を忘れず生きていきたい。
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今になって昔の上司のことを思い出す
たくのむをリリースして約1ヶ月たった。
今になって昔の上司のことを思い出す
スタートアップのアーリーステージ、必死にならなくちゃいけない時にどうしてメール1通に3時間もかかってたおれを雇ってくれたのか。
よくもまあ、面倒みてくれたと思う。
今ようやく思うよ
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リリースしてから2日後の朝に日本経済新聞に取り上げていただいた
取材くださったS記者に感謝。こんなスピードでサービスが広まっていくのは初めてのことだった。
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たくのむをリリースした
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大学のサークルの友人に会って
尊敬する大学時代の友人Kが成功を祈ってると言ってくれた。彼の眼は本気だった。リスクを取ってるのはお前だと。彼はとても優秀で人に語らない秘めた情熱を持ち、世界のトップ企業でバリバリ働いているような人。最近は三徹してるらしい。そんな彼から言われた。彼に恥じないようにがんばりたい
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最近親から「がんばられ」と言われるようになった
23歳の時から起業しようと上京して、パッとしない生活をずっと送ってきた。親に心配かけてばっかりだったけど、最近両親が「がんばられ」と電話を切る時に言ってくれるようになった。応援してくれるようとしているのを感じる。
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竹の花が咲いたのでアドレスホッパーになった
一箇所に定住しないライフスタイル、アドレスホッパーになった。おかげでいろんな出逢いが生まれている。あとから気づいたけど、自分がアドレスホッパーになったのは“竹の花”が咲いたからかもしれない。
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いよいよ引っ越し
3年半住んだ下北沢、思い出しかない部屋を離れる。さようなら。本当にありがとう。
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STORYS.JPのストーリーのこの言葉が刺さった
「自分を偽って生きていくのが人と上手く付き合う方法なら、
僕はもう、誰とも関わりたくないと思った。」
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元カノが突然電話をくれた
もう何年も前に別れてしまった当時の彼女から、たった今突然の電話があった。懐かしい声。お葬式の帰り道らしい。友人が仕事終わりに体調を崩しそのまま亡くなったと。「元気そうでよかった。どうか無理をしないで。幸せでいて」と声をかけてくれた。彼女は立派な母親になっていた。心を込めて生きたい
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マラソン大会で15キロ走ったぞ〜
カラダが強くないとパフォーマンス上げられんぞということで、互いに運動不足な友人とその奥さんで2ヶ月間走ってきて、今日がその一つのゴールのマラソン大会だった。楽しみながら自分のペースを守って無事完走できた。走ってる最中、最高に気持ちよかったし達成感が凄い。
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先輩の言葉
日本のweb界隈はボタンの色を変えたり、文言を変えたりするの好きだけど、本当に優秀なやつらはボタン自体を取ることを考えるんだよ、次元が違うんだ、もっともっと本質的にならなきゃいけないよ。という言葉を、尊敬する先輩で友達のDさんにもらった。
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cronoをリリースした
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1010株式会社を設立し、STORYS.JPと一緒に独立した。
じゅうじゅう
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STORYS.JP事業部長になる
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正社員になる
今思えば、よくも自分みたいなのを雇ってくれたと思う。
本当に、何もできなかった。
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CWOになった
Chief Water Officer (チーフウォーターオフィサー)と呼ばれていた。コンビニに2Lの水を買いに行き、みんなに水を出す係だった。
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「ライターインターンとして採用します」との連絡が入った
本当に嬉しかった。シェアハウスに一緒に住んでいたSさんが一緒に声をあげて喜んでくれた。ありがたかった。7月1日。「1日だ、これから始まるんだ。」そういう気分になったのを今も良く覚えている。
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電話をかけたら熱意を買ってくれ、まずは試用期間付きで働かせてもらえることになった。
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「もういっぺんアタックしてみたらどうだ。」沖縄の山内さんが背中を押してくれた
山内さんは70歳くらいのシェアハウスで出会ったおじさん。体育教師をされていたが定年退職し、これからの時代は英語だ!と東京に留学?しにこられていた。よくご飯を一緒に作って食べたが、その時にこの言葉をかけてもらった。山内さんが居なかったら今までのすべてはなかった。
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面接をしたら一瞬で落ちた
みるみるうちに顔が曇っていくのがわかった...
地獄だった
自分の力の無さを思い知った。
とてつもなくスペックの高い人たちが、STORYS.JPを運営していた
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全力で履歴書を書いて送った
当時の社長J氏が、すぐに来てほしい!と言ってくれた。
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STORYS.JPを見つけた。感激だったが、くそみそに泣けた
ようやく見つけたやりたい事、他の誰かがやってしまっていた。
自分が自分でなくなるような気分だった。
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ボロシェアハウスで暮らし始める
西新宿のシェアハウスに住みはじめた。築60年の連れ込み宿を改築した家。僕は4畳半の受付だった部屋。いろんな人たちが居た。元プロサッカー選手やホスト、小説を書く人、アニメーター。東京で、みんなそれぞれに、それぞれの事を抱いていた。いろんな事を話した。
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初めてやりたい事が見つかった。創りたいwebサイトが浮かんだ。
趣味もなければ、やりたい事がない人生だったけど、ようやくやりたい事が見つかった。人の人生経験(心の動き、感情の痕跡)が共有され、人の死後もこの世界に蓄積され続け、価値を生み続ける仕組みを創りたいと思った。
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アメリカへ
留学した。
英語を勉強したかったし、完全に人生に迷っていた。
行かせてくれた両親には、感謝している。
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バカになりたかった
後出しじゃんけんの様なコミュニケーションをする自分に嫌気が差した。無我夢中に生きたかった。後先考えず、思い切って、枠からはみ出るように生きたかった。自分のダメで未熟な部分を表現しながら生きたかった。ダメなままの自分を受け止めて欲しかったのかもしれない。物事に鈍感になることを決めた
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人生がつまらなくなってきた
PDCAを回しながら良いと感じる事を続けた。結果、社会では他人(と自分)の気持ちと行動をいかにコントロールするかが命題だと感じ、その力もついた。 そして、人生がつまらなくなった。僕も結局は人間だった。僕が良いと感じる事は、自分の欲しいものを効率よく手に入れる事だった。
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心からいいと感じる事だけやると決めた
相田氏の詩を読み漁った。心は落ち着いた。でも、どう生きればいいか分からない。生きるためには、選択しなくてはならない。でも何を自分は選択すべきか。選択肢を逡巡した。選択には死の恐怖が付き纏う事を感じた。考えた結果、心から良いと感じた事なら、仮に死を招いても本望だと思った。
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相談に乗ってくれていた祖母が、相田みつをの詩を紹介してくれた
「自分だけが悩んでいる」と錯覚し孤独だった頃、「悩みは尽きねえんだなあ、生きているんだもの」という詩を見た。生きている人皆が悩んでいるなんて到底信じられなかったが、少なくともこの人は悩んでいたんだろう、と思えた。悩みは解決していないがずいぶんと楽になった。存在が許された気がした
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悩んでいた
悩んでいた。学校のこと、家のこと。心の中にぽっかりと穴が空いていた。「楽しい」とされる事があっても、その穴から抜け落ちていった。日差しが鬱陶しい。青空に腹が立った。クラスメイトはケラケラと笑っていた。温度差は僕を焦らせた。何でこんなに悩んでいるんだろう。悩んでいる自分が嫌いだった
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生まれる